自分が知らない自分の思考
文句ばっかり言っていないで自らが行動を起こすことで見えてくることは山ほどある。技術は進歩しているのに、追いついていないのは人間のほうだ。重宝に使っているLine。老眼のせいであの小さい文字が辛かった。しかし、なんのことは無い、文字を大きく表示する機能など山ほど用意されているのだ。若者は文字を大きく表示する必要などないので、そんな機能に興味がないのはあたり前。その機能を知らなかったとしても生活に支障はない。一方、文字の大きさに苦労していてもうちょっと大きくならないのか、とグチるのなら、どうにかする方法を自分で見つければ良い。老いとは自分の行動にまで足かせをはめてしまうものなのか。年はとりたくないものだ。
子供の遊びの基本的なパターンは、「繰り返し」と「変化」だそうだ。大人から見れば「同じことばっかりやってつまらなくないのか」と見えたとしても、実際には、子供は「繰り返す」ことの中に、少しの「変化」を発見しているらしい。そしてそれは科学者のように「こうしたらさっきと同じことが起こるじゃないか」という仮説を立てていて、動作を繰り返す。「じゃぁ次はこうしたらこうなるんじゃないか」と変化がどんどん続けば探求心が収まることはなく、永遠に遊んでいられる、ということだ。そしてこの試行錯誤的な思考(発散思考)は、与えられた条件から多種多様な発想を生み出す思考とも言われている。5歳の子供の発散思考は、高い知的能力を持つ成人と同等とも言われている。発想思考テストというものがあって、例えば、鉛筆、カップ、長靴、などといったごくごく普通のモノを「どうやって使えるかな」と尋ねてみる、という単純なものなのだが、5歳の子供だと有に100を超えた「使い方」を思考できるのに対し、10歳の子供では、40程度まで減り、大人だと10~12ぐらいの答えに収束してしまうらしい。発散思考は、単一の問題に対して複数の解決策を生み出す。子供の考えを「正しくない」または「間違っている」と決めつけてしまうことによって、違った考えを持つことを拒否するだけでなく、本当に考えていることを言うチャンスさえも奪うことになりかねない。
読者の皆様は、自分の思考方法について深く考えたことがあるだろうか。問題や疑問を抱いたとき、それを解決するために自分はどうしてきたのか。問題を文脈でみているのか、起こりそうな結果に注目しているのか。多様な解決策を見つけようとしているのか、唯一の解決策を探しているのか。過去の経験に頼ることが多いのか、新しい道を模索することが多いのか。自分のやり方で考えるということに慣れすぎていてると分析することは疎かになるだろう。それこそ自分自身の成長を阻害することではないのか。前述の「発散思考」は、多様なアイデアを出し、徐々に核となるアイデアに絞り込んでいくような思考方法である。たった1人で問題を解決することは難しい。だから、人間は、チームで仕事をしている。そして、それぞれの考え方やスキルが集結した時、大輪の花が咲くのだと思う。